「ゲーム熱」はなぜ突然冷めるのか http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20051027203.html

 私は知り合いの筋金入りゲーマー数人に電話をかけ、考えを聞いてみた。その1人、ニューヨーク在住の法医病理学者、ジョナサン・ヘイズ氏は、『ICO』のような美しい世界観を持つゲームにのめり込むのが常だったが、最近は『バイオハザード4』に夢中になっていた。ヘイズ氏はあるゲームをプレイしなくなるのは、玉ねぎの皮をすべて剥いてしまったと感じるからだと考えている。

 「ゲームの背後にある仕組みまで見通せた気分になる。すると突然、これ以上時間を注ぎ込む価値はないように思えてくるのだ」とヘイズ氏は述べた。この発言は、ラフ・コスター氏が著書の『ゲームデザインにおける楽しさの理論』(A Theory of Fun for Game Design)で展開している議論と非常に近い。われわれ人間は常に目新しさを求めるので、無限に近い並べ替えが可能なゲーム――チェスなど――のみが、われわれの注意を永遠に惹き付けることができるというのが、コスター氏の主張だ。

 しかも、チェスほど複雑なゲームはそう多くはない。実際、チェスの域に達することを難しくする一因としては、成功したゲームが持つ逆説がある――ゲームが優れたものになるほど、われわれは長い間プレイする。そして、長い間プレイするほど、ゲームデザインの些細な欠点にも気づきやすくなるのだ。

 「本当に見事な新作ゲームが登場すれば、当分の間はそのゲームに釘づけになり、そのことばかり考えている」と話すルーク・スミス氏は、ゲームに関するブログ『コタク』に寄稿しているほか、最近も数週間を費やし、『ワールド・オブ・ウォークラフト』でレベル60のキャラクターを操るのに血道を上げていた。「だがそのうち、ゲームバランスの問題や馬鹿げたプレイ内容、オンラインに最適化されていないなどの欠点に気づき始める。『うまくいく』ように努力を続けるが、うまくいかない」

 ゲームへの熱狂が「終わる」のは、おそらくわれわれの頭の中に、ちっぽけな欲求不満が歯垢のように蓄積するからだろう。そしてある日突然、これ以上やっていられないと思い、興味の対象を移すのだ。実際、私が最後には『バーンアウト』への隷属状態から脱したのも、欲求不満が一因だったのかもしれない。ある種の車両をどうしても完璧にコントロールできず、壁にぶつかったとき、支配することの喜び――私とゲーム機を一体化させる、打てば響くような連帯感――が突然損なわれてしまったのだ。

ふと疑問に思ったのですけど、
『ゲームの背後にある仕組みまで見通せた気分』という部分、やり込みとか制限プレイとかまでやる人の例をどうなるんでしょうか。
その人たちにとっては、この人の言う『チェス』と同じレベルでそのゲームが好きって事になるのかな。

あと、オンラインゲームとかはコミュニケーションがあるおかげで『やり込む意義』が普通のゲームよりも高いですね。
やり込めばやり込んだだけ同じ価値観のフィールドに居る他人に評価してもらえる。
『長く居ればそれだけ他人に評価されるシステム』さえしっかりしてれば、その他のストレスを凌駕するのでしょうか。(ROとかやってないんでわかんないですけど)

でも、そのゲームを完全に把握した(一体化した)時に飽きる、という事で言えば、1人でやるゲームならあり得ると思うんですが、
オンラインゲームや対戦ゲームに飽きる場合は『たまねぎの皮を全て剥いてしまった』ために飽きるわけではないような。

対戦ゲームの場合、チェスや将棋は対戦のルールとしてはシンプルですが、先読みのレベルが高次ですね。
格闘ゲームとかは、先読み必要ですけど、どちらかというと瞬間的な読み合いが複数回ある感じに思います。

あーまとまんねー

ダラダラ書いてきましたが、なんというか、
『ルールを完全に把握した人が取れる行動』がカギな気がします。